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ART
目に見えるものはやがて消える。
音も、かたちも、いつか風に溶けていく。
けれど、その背後には流れがあり、
​私たちはそこから絶えずかたちを受け取っている。

見えないものをすくいとり、
線や色や声やリズムや動きとしてあらわすとき、
世界とわたしのあいだに響きがひらかれる。


 


かたちは消えても、
その流れは媒介され、
次のいのちへと渡されていく。

「自分の存在には意味がない」。
それは私が幼少期から抱えてきた、
根深いコンプレックスとしての信念でした。

何度も何度も向き合い、
そのたびに得るものはありました。

プロセスワークの名前を脱ぎ、
システムアウェアネスの名をまとったときには、
もうそう思わなくてもいいのかもしれないとさえ思っていました。

けれど、あるとき気づいてしまいました。


見ないようにしていてもやってはいかれるけれど、
それはまだ、燃え滓のように身体の奥底に残っているのだと。

時が来て、それと向き合ったとき、
意味のなさの底へ降りていく過程そのものが、
詩となって現れてきました。

意味のなさの中に、ただ揺蕩ってみるとき、
――ああ、「間」とはこのことか。
そんな気づきが立ち上がりました。

この瞬間、「意味がない」という否定は、
「間に揺蕩う」という肯定へと転じていったのです。

意味を求めず、ただ間に身を置くとき、
そこから新しい感覚が芽生える。


「場」から立ち上がる見えないものをすくいとる。
そうして生まれた言葉が「間の学校」でした。

その後、アーティストたちとの協働を通して、
演劇の可能性が大きく広がりました。

最初の仕事場の名は「なんでも工房」。
子どもたちと一緒に絵を描いた日々も思い出されます。

思えば、プロセスワークセンターに入学を許されたのも、
夢と向き合った末に描いた宇宙曼荼羅みたいな絵のおかげでした。

システムアウェアネスを始めてから、
しばらく離れていたアート。

 


けれど「間」の感覚と改めてつながることで、
アートは世界と自己を媒介する領域として、
再び息を吹き返したのです。

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日々の小さな営みが、いのちを生かすアートになります。​

アートは、その日常を“創造”へとひらく“入り口”です。

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