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COSMOS
呼吸がととのい、
からだが静けさに満ちるとき。
わたしは、この全身で、
宇宙のまなざしに立っている。
考えても、知っても、
近づけなかった問いが、
いつしか、ひらかれている。
科学も、哲学も、
この身体の風景のなかにとけていく。
そして、私の問いは、からだごとひらかれていった。
それまでも、科学や技術は「人間がどう向き合うか」の問題だとは思っていました。
原発もAIも、いずれ人類が成熟すれば、折り合いがつくかもしれないが、
今はだめだと。
しかし、頭ではそう考えていても、土と向き合う私は、
感情的には、それらを人工物とみなし、
SOILの場で感じる“いのちの循環”を邪魔するものとして捉えていました。
そんな気持ちのまま、いのちの循環を語っても、
私は永遠に科学技術と向き合えるだけの成熟には到達できないでしょう。
転機は、福島第一原発への訪問でした。
原子炉に入り、外に出てきたとき、私はなぜか手を合わせていました。
頭ではなく、身体が反応したのです。
同行した友人は、量子力学を学びながら原発事故を経験した人でした。
「原子も自然の一部」と思いながら、その自己矛盾に揺れていた彼は、
「原発は、どこか美しい」と感じてしまったことに戸惑い、私を誘ったといいます。
そのあと、しばらくは頭の中で考え続けました。
反対すべき?賛成すべき?自然とは何?技術とは何?
決定打は、チェルノブイリでした。
事故後、奇形の動物たちが生まれた地に、
やがて放射線耐性をもったオオカミが現れ、
今では生態系が少しずつ復活しているといいます。
人間がいなくなった森で、
自然は粛々と、
こわれたシステムの中から新たなホメオスタシスを創り出していました。
川や森の中で、どこか身体で知っていたはずのこの感覚が、
原発という人間の所業にも、宇宙的な視点で重なっていきました。
プロセスワークでは馴染み深い
「宇宙の果てから地球を眺める」ワークをしてみると、
原発も地震も、人間も、同じ“自然の現象”の一部だと感じられました。
怒ることも、批判することも、大切だけど、
その奥に、もっと大きな問いがありました。
わたしたちは、この自然の力と、どう共に生きていけるだろう?
反対か賛成かを超えて、
無慈悲なまでに純粋な宇宙のはじまりに、
畏怖とともに、問いをひらきながら、歩いていくこと。
それが、Cosmosという領域の入り口になりました。

わたしたちは、宇宙の片隅で、問いながら生きている。
科学と身体のあいだで、
知といのちのあいだで、
目に見えない何かと、静かにつながりながら。
Cosmosは、そのつながりを“感じる”入り口です。
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